雑学

横綱の名は綱にルーツがあった

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横綱の名は綱にルーツがあった

横綱の名は綱にルーツがあった。日本の国技とされる競技・大相撲。日本で昔から伝わる伝統競技であり、大相撲が行われた江戸時代から数百年たった今でも、たくさんの人に親しまれている。

現役力士の階級のなかで頂点に立つ横綱。この横綱の語源は、その名の通り横に張った綱にあった。かって大関が力士のトップだった時代、邸宅や寺を建てる時に行った地鎮祭で、大関が四股踏みに参加するようになった。結神緒と呼ばれる腹帯をかけて、天長地久の法の儀式をおこなったのである。地鎮祭では、善士と凶土を区別するために地面に綱を張り、横綱と呼んだ。これが横綱の語源である。

そして、力士の行う、天地長久の法の儀式と出場資格を許可することを、横綱の伝の免許というようになった。地鎮祭で力士が着用した結神緒というのは産霊の神からきた名称で、のちに横綱がしめる注連縄とはまったく別物だ。それが江戸時代の十八世紀後半、黒白の絹の綱をしめた力士たちが登場する。

この黒白の綱のことを、当時は横綱と呼んでいた。さらに一七八九年、横綱免許を受けた谷風が、注連縄をしめて土俵入り。この注連綿が横綱と呼ばれた。やがて明治中期、番付に横綱と記されるようになり、一九〇九年、横綱が公式に地位の称号となったのである。

現在の大相撲の原形は江戸時代まで遡るが、歴代の横綱は総勢で70名以上になる。初代の横綱は、明石志賀之助という人物で、1624年(寛永元年)– 1644年(正保元年)】に活躍されたそう。

現在、横綱昇進の条件は『大関が2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績を挙げた時』となっている。

相撲界にも新団体が設立されたことがある

相撲界といえば上下関係が厳しく、古くからの伝統を重んじる世界というイメージが強い。そういう伝統重視の世界なら、反乱や分裂などもないだろうと思ったらそうではなかった。春秋園事件と呼ばれる事件である。昭和の初めごろの相撲界は、上層部ばかりが利益を得て力士たちの待遇は悪く、入場料も高かった。

そこで一九三二年一月、関脇の天龍三郎が、幕内力士20人と十両力士11人を東京品川にあった中華料理店春秋園に集め、会計制度の確立、興業時間の改正、入場料の値下げなど、一〇項目にわたる決議文を相撲協会につきつけて改革を迫った。

協会がこれを拒否したので、春秋園に立てこもった天龍たちは、新興力士団を設立。二月四日から東京の根岸で、六日間の旗揚げ興行に踏み切った。時を同じくして、東方有志力士団も相撲協会を脱退。名古屋に本拠をおいて、革新力士団という新団体を結成した。新興力士団と革新力士団は、ー合同で大日本相撲連盟を結成した。

三月に大阪で合同選手権試合を興行し、成功の勢いに乗って相撲協会のお膝元の蔵前でも七日間の興行をした。相撲協会に残った関取は四分の一足らず。旧大阪協会関取に至っては全員脱会してしまったから、相撲協会は春場所を開催できないありさま。

対する大日本相撲連盟は破竹の勢いで全国各地を巡業してまわった。だがこの年の十二月、関西相撲協会の設立について意見が分かれ、巡業先の高知で分裂。力士たちの一部は相撲協会に帰り、結局協会は消えてしまった。

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