哲学入門

哲学研究者が虚しさを感じた時

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「哲学研究」が虚しくなってきた、と語るある研究者。いや、恐ろしくなってきたのです。なぜなら、こうした営みは、自分のうちにわずかに残っている生き生きとした自由なものの見方や感じ方を枯渇させるように思われるから。いつのまにか、カントの眼を通しカントの枠を通してしか森羅万象が見られなくなりつつあるように思われるからです。

空いた時間をアアでもないコウでもないと思索しつづける。これからもカントの代表著作は読む、ほかの古典的哲学書も読む。おもしろければ何でも読む。しかし、けっして「文を書くためだけに本を読む」ことはしないことに決めたのです。

そこで、私はカント屋の屋台をタタムことにしました。具体的には、カントについで論文を書くことをいっさいやめるということ。カントが書きなぐったノートやカントについての膨大な論文を読むことをやめるということです。こうした仕事をしなければカント学会からは追放されます。

書物を調べないときは考えない

書物を調べないときは考えないのである。考えているとはいっても、それは一つの刺激に応えでいることなのだ。つまり、結局やはり反応しているだけのことなのだ。学者というものは、ほかのだれかがすでに考えたことに、イエスを言ったりノーを言ったりそれを批判したりすることに全力を費やしてしまって、もはや自分自身は考えることをしない。

とっくの昔にニーチェは、調べ物をするために書物を読むことが人をいかに考えなくさせるか、見抜いています。書物との交渉を例にとろう。結局のところ、ただもう書物を「調べる」だけの学者ー並みの文献学者で一日に約二冊というところだろうこういう手合いは、しまいにはみずから考えるという能力をすっかりなくしてしまう。

ニーチェが側にいれば抱きつきたい気持ちです。カント学者とは、たしかにー自分自身は考えることをせずにーカントから発せられる直接的間接的「刺激に応えている」だけの人種のことですから、ある研究者は語った。

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