哲学入門

哲学が教えるのは行なうことであって語ることではない

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哲学が教えるのは行なうことであって、語ることではありません、と語るある専門家。哲学が要求するのはこういうことですー各人は自己の方式にのっとって生活すること、言うことと生活が矛盾しないこと、さらに内なる生活そのものが自己のあらゆる行為と一つであって、色の違いがないことです。

カントを哲学するとは、カントの言葉について「論じる」ことではなく、カントの言葉を「生きる」ということ、カントが提起した問い(この世は現象なのか?死後の魂の不滅は認識できないのか?どんな場合も嘘をついてはならないのか?)を論文のテーマとしてではなく生き方としてとらえることをおいてほかにありません。

英知の最高の義務と証拠は、言葉と行為が調和を保っことであり、自己がどこにおいても自己自身と同等であり同一であること。「自己がどこにおいても自己自身と同等であり同一である」ことまで要求するつもりはありませんが、「言うことと生活」があんまりかけ離れていると、やはりおかしいと叫びたくなる。

道徳ぶった輩、清潔ぶった輩

戦後三十年、死に場所を求めて飢餓の恭をさまよううちに、そんなわたくしにも近来ようやく自分なりの安心立命の悟りがひらけたようである。自殺をおもうことはもうあるまい。座禅が縁で結ばれた妻とのあいだに子はない。一人とも、いまはやがて来る肉体の死とともに大混撃の悟りに入ることもできそうな気がしている。すでに親鷲とおなじ心境である。

あれだけ世をすねていた永井荷風が国家から文化勲章を受けたことは「わかる」気がする。どこが違うのか?荷風は、世の中をうまく立ち回る人も、威をカサに着ていばる人も大嫌いなのだが、同じように嫌いなのは、道徳ぶった輩、清潔ぶった輩。

哲学者ではありませんが清貧の思想でガッポリかせいだ作家はその印税収入をどうしたのでしょうか?むしょうに知りたくなります。一般的に勲章を非難しようというのではないのですが、こういう人が国家権力から迫害され苦悩し放浪を続けた「境」ではあるとは、私にはどうしても思えない、ある専門家は語った。

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