カウンセリングや芸術療法を体験した人は、科学的論理が普遍性をもつのと同じように、感情の論理、象徴過程を共有しうることを体験します。そしてこのような公共性を強くもったもの、つまり人の心に強く訴え、生々しく伝えられるような形において感情の論理が表現されること、それがすなわち芸術だといってよいかと思います。
学問的・科学的発想法から不合理だときめつけるような性質のものではなく、それこそが感情の論理にもっともびったり合ったもの。このような感情の論理は自由奔放ですから、ある意味では学問的論理のような公共性、普遍性がないともいえます。人間のこのような感情の論理、象徴過程は、個別的でありながら同時に驚くほど普遍的であります。
そしてそれは、科学的方法とは別の仕方で、やはり人間が自然を意識し、自分自身を自覚していくその過程に他ならない。人類が科学や芸術を発展させたそのこと自体、公共的な意識、つまりみんなのために働き、みんなと交わるという共同存在性を背景にしています。
閉ざされた精神による科学でも
閉ざされた精神による科学でも、内容は人類を志向しないでは認められないわけですから、それで一応成り立っているようにみえます。しかし、共同存在意識の立場からいうと、これらのホタネは、やはり本物ではない人類共同の仕事なり表現なりに参与するというタテ、自分の心からのおおになるのが共同存在意識だといえるでしょう。
個人生活においては、科学や芸術の探究もきわめて閉じた精神、つまり利己的な動機によって行なわれます。それは多くの場合、自分の出世の手段であり、生活維持のためであり、自己顕示のためであります。もう少し純粋にいっても、それは自分の知的好奇心をみたすためであり、自分の内心の葛藤をはきだすためであります。
他人との共存において、あるいは集団を発展させる意味において、そしてもっとも広くは人類発展の意識の中において、まさに知ることが必要であるから科学する、何かを現実に克服する必要があるから科学する、それこそが、より開かれた学問の精神であります。