哲学入門

神の死を思うときニーチェのように発狂しそうなのでしょうか

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学問の神様のようなアリストテレスは、次のように語っております。われわれは徳が何であるかを知ることを目的としてではなく、よき人となることを目的としてこの考察を行なっているのである。でなければ、それは無意味であろう。

しかし、実際はこうした行為をしないで、言論に逃避し、そして自分は哲学しているのであり、それによってよき人となるであろうと考えている人々が多いのであって、彼らのこうしたやり方はいわば注意して医者の言葉を傾聴しながら少しもその命令を守らない病人に似ている。

わが国のニーチェ学者たちは「神の死」を思うとき、ニーチェのように発狂しそうなのでしょうか?「永遠回帰」を実感するとき、ニーチェのようにめまいがするのでしょうか?もしそうでないとしたら、そのことに疑問を覚えないのでしょうか?ニーチェが全身全霊で嫌悪し攻撃した「学者たち」の一員に成りきっていることに、なんの自責の念もないのでしょうか?

「ソクラテスはなぜ毒杯を仰いだか」についてはこれまでイヤというほど議論されてきた。しかし、ほとんどの哲学(研究)者は、自分の生活となりますと、この「生活と言葉との一致」という大原則をアッというまに忘れてしまう、いや忘れたふりをして無視してしまうのです。

世のあまたのアリストテレス学者たちは

世のあまたのアリストテレス学者たちは、ここのところは飛ばして「研究」しているにちがいない。アリストテレスについて語る人は多いのに、その中に「よき人」があまりにも少ないので、ついこう思いたくなります。

ニーチェによる学者の生態観察は驚くほど鋭い。学者たちはおたがいに監視をゆるがせにしない。おたがいをあまり信用していないのだ。小さな罠をしかける名人たちで、逃げ足の遅い知識の持ち主が来てくれないかと待っている。

ー蜘蛛のように待っている。私は彼らが毒をこしらえるのに、いつも用心深いのを見た。そのようなときは、いつもガラスの手袋を指にはめていた。学者たちはいかさまサイを投げることも心得ている。そうした彼らが勝負にむきになり汗みどろになっているのを私は見た。

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