必要は発明の母であるといわれるように、学問は必要によって生じました。一見、必要とまったく無関係な「学問のための学問」のようにみられる場合さえ、その好奇心というか、探究の姿勢は、やはり人間がこの世界に生きる、その生きる工夫の姿勢において、世界をとらえようとする動きに他なりません。
学問や芸術が、共同存在意識の立場からみた場合、つまり、人類全体からみた場合、人類全体の自覚の過程であり、意識化の過程である。この意識化は実際の生活の必要性(行動)と密接に結びついていますから、学問が実用主義的な見地から生まれることはいうまでもないし、したがってまたそうした学問が、実用主義の限界を伴うことも否定できません。
自分とは何だろう。人生とは何だろう。神はあるのだろうか、大宇宙はどこまで広がっているのだろうか、微粒子の実体はそもそも何なのだろうか。こうした純学問的と思われるような問いかけさえ、われわれがこの世界の中で生きていく必要や姿勢に根ざしています。
学問の発展に他ならない
そしてちょうど乳幼児が、生活の必要や、行動を通じて意識と自覚を発達させていくように、人類全体もまた、そうした必要に裏づけられた思考様式において、自覚を深めてきたのです。これが広い意味での学問の発展に他ならないでしょう。
夢の中において、それはもっとも端的に現われてくる。現実論理の世界に生きているから、夢といえどもこの論理をまったく無視するわけにはいきません。しかし、それでも、その夢の中では、たとえば現在の学校の友だちの仲間の間に、幼児期に知り合った人や母親の姿が登場したり、あっというまに日本からヨーロッパへ飛んでしまったり、水の上を歩いたり、空を飛んだりというような、現実論理を無視した動きが、あるいは時間・空間を超越した動きがでてきます。
人類はそうした学問の限界を、少なくとも人間科学においてはしだい芸術的な発想法、芸術的自覚の過程は、学問的自覚の過程とは異なった、しかも人類が古くから抱き続けている過程です。ここでは、実用、実際の必要に合わせた外界適応の論理ではなく、内的感情の論理が優先します。