雑学

永仁の徳政令はなぜ出されたのか?

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明治時代の1円の価値は

永仁の徳政令はなぜ出されたのか?

永仁の徳政令はなぜ出されたのかご存知だろうか。当時、貨幣経済の発達の影響をうけ、生活に困る御家人が増え、所領を売り払う者も続出していた。鎌倉幕府は永仁五年(一二九七)のこの日、永仁の徳政令を出した。内容は、御家人間の所領の売買や質入れを禁じ、以前に売却した御家人の土地は、もとの所有者が無償で取り戻せるとか、債権取り立ての訴訟には応じない、などというものだった。

これは幕府にとっても重大な問題だったから、徳政を行ない、御家人を救済しようとしたのである。借金が帳消しになっていいようなものだが、土地の売買や借金で生活のやりくりをしていた御家人は、それができなくなり、生活はますます困窮した。

2度にわたるモンゴルからの来襲

当時は、2度にわたるモンゴルからの来襲(元寇)により、いつまた攻めてくるかもしれないモンゴル軍に備え、幕府は九州の沿岸警備を強化する必要があった。

徳政令が出されてすぐには、一旦御家人たちは喜んだそうだが、結果として徳政令は御家人の生活をさらに苦しめる事に。永仁の徳政令のそもそもの目的は
御家人が領地を売ることを禁じることだったと考えられる。

永仁の徳政令は一年ほどで実施打ち切りになり、以後、鎌倉幕府は二度と徳政令を発することはなかったそうだ。

初の美人コンテスト

芸者を対象にしたコンテストはそれまでにもあったが、広く一般女性を対象にしたのはこれがはじめて。コンテストばやりの昨今だが、初の美人コンテストが行なわれたのは明治四十一年(一九〇八)のこの日。アメリカの新聞シカゴ・トリビューン主催のミスワールド・コンテストの日本代表を選出するもので、時事新報社が一二月二十八日から美人写真を募集し、その結果を発表したのである。

一位に選ばれたのは十六歳

一位に選ばれたのは十六歳で、学習院女学部三年の末弘ヒロ子。残念ながら学習院でこれが問題となり、ヒロ子は退学処分に。しかし翌年一月、アメリカのシカゴで行なわれた世界大会では堂々六位に入賞、日本女性の美しさを世界にアピールした。

東京・湯島で日本初の博覧会

主催は文部省博物局。明治五年(一八七二)のこの日、日本ではじめての博覧会が東京の湯島聖堂で開かれた。五日間は役人を対象にし、十日から一二十日間、一般に公開された。京都では三月十日から八十日間、西本願寺など六カ所を会場に京都博が開かれ、三万人が入場。うち七百七十人が外国人だった。人気があったのは名古屋城の金の鱗だが、出品物の重要なものは、のちに博物館に納められた。

ところで博覧会という名称がはじめて使われたのは慶応一年(一八六六)のことである。当時、パリで大博覧会が開かれることになり、日本にその出品勧誘状がとどいた。外国奉行がそのとき、博覧会という訳語をつけて紹介。それ以来、一般に定着した。

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