雑学

江戸時代の関所では芸人は芸が手形になった

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理容院は明治維新の頃に横浜で生まれた

江戸時代の関所では芸人は芸が手形になった

江戸時代の旅は、関所で手形をみせ、厳しいチェックを受けたというのはよく知られている史実だ。特に厳しかったのが、入鉄砲と出女。鉄砲が江戸に持ち込まれると、幕府に攻撃が加えられるかもしれない。

また、いわば人質として江戸に住んでいる大名などの妻女が、ひそかに国元に帰ろうとしたら、幕府に反逆をもくろんでいる可能性が高い。こういった理由から、江戸に鉄砲が入ることと、江戸から女が出ていくことが警戒されたのである。

そのため、当時の女性の旅は大変。特に武家の女性が関所をとおり抜ける時には、現代なら間違いなくセクハラになりそうな、屈辱的な検査を受けなければならず、旅する女性たちは、検査係である改女にワイロを渡して検査を軽くしてもらっていた。

女性たちの苦労と逆に、落語師、講釈師、義太夫師、太神楽などの芸人たちは、関所を通過するのがラクだった。手形さえ必要なく、芸をみせれば関所を通過できたのだった。これは女性の場合も同じで、芸人であれば屈辱的な検査を受けなくても、芸をするだけで通過することができた。芸人たちはそれぞれ一芸をもっている。素人が芸人になりすまそうとしても、おいそれとマネはできないだろう。だから芸をしてみせれば、確かに本人だという証明になるという発想である。

また、関所の役人たちにとって、旅芸人がやってくるのは、数少ない楽しみでもあった。芸をするように命じ、役得とばかりに楽しんで、機嫌良く通過させることがよくあったという。

芸人の芸というのは、他人に真似できないものであるという認識が、役人たちの間でも強くあったそうだ。

芸人は江戸時代とかの昔には身分が低く見られていた(士農工商エタヒニン芸人)そう。江戸時代は、芸人のことを「河原乞食」と呼んだそうだ。中世に「河原者」と呼ばれている人たちがいた。

職を失ったサムライが、ごく少数、道ばたで物真似や大道芸などを通行人に見せることによって生活の手段とする者も出てきたのだった。

日の丸が公式デビューしたのは十九世紀のこと

一八七二年十月十四日、新橋-横浜間の鉄道開業式がおこなわれた。この日本初の鉄道開業式の日は、日の丸が国旗として公式デビューした日でもあった。日の丸は一八七〇年一月二十七日、太政官布告により、日本の船舶に用いる国旗として定められた。だがこの時はまだ船舶以外では、国旗となっていなかったのである。

それが一八七二年になって、個人や役所が掲げてもよいと公式に認められ、鉄道開業式で初めて用いられたのである。沿道で汽車がくるのを待っていた人々は、国旗となったばかりの日の丸を振って汽車を迎えた。実は、この日は日の丸だけでなく、万国旗も日本ではじめてデビューするはずだった。

外国ではお祝いに万国旗を飾ると知り、それに習おうとしたのである。だが、日の丸さえろくにないありさまなので、万国旗などとてもない。そこで海軍省から軍艦にかかげる日の丸や信号旗を借りたり、横浜港に停泊していたフランス軍艦から、フランス国旗や信号旗を借りるなど、あちこちから旗を借りて集めた。集まった旗は、大きさもまちまちなら、汚れたものもあり、どう考えても飾るとかえってみっともないと外国人に笑われてしまいそうだ、ということで、万国旗を飾るのは取りやめとなったのである。

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