公益か私益かという問題は非常に複雑、微妙ですが、道路建設のように公益性の高い場合は、ある程度の個人の権利の制約はやむを得ないように思います。例えば、多数の利便性のために必要な施設を造ろうとして莫大な税金を投入しながらも、数人の個人の権利を尊重するあまり実現しなかったり、数十年という月日が経過したりということが多すぎるように思います。日本のように利用できる土地が限られ、そこに道路を通そうとすると、どうしても私有地を避けて通ることができなくなります。
民主主義のルールを誰もがしっかり認識しています。新しく道路を造る、空港を建設するというような場合、住民に何度か説明した後、時期を決めて採決をします。そこで賛成者が上回れば、一気に実行に移し、過半数を得られなければ中止する。それだけのことです。個人の権利は小さいとは思いませんし、それが基本であることは十分に承知していますが、行きすぎた権利を主張する日本人が日につくようになりました。そのことが足かせになり、多数の幸福が阻害されているように見える。
公共性の前に個人の権利が制約されるのは普通のこと
欧州ではどうかと言えば、国によって若干の違いはあるものの、公共性の前に個人の権利が制約されるのは普通のことです。個人の土地が建設予定地に入っていても、代替の土地を用意したり、そのときの標準的な価格で土地を買い上げるなどして、用地を確保し工事を進めます。万一、反対者がいる場合はどうするのか?強制的に撤去させるのが通例です。
ただし、国民も公共の意識が高いため、日本のように長期間もめることはないようです。残念ですが、日本人の権利と義務、公益と私益のとらえ方は幼い気がしてなりません。端的に言えば民度が低いということでしょう。過半数で決まったならば、たとえ住み慣れた土地で愛着があっても文句を言うこともなく離れていきます。これが本当の民主主義の姿ではないかと思います。